本記事は、学習支援塾ビーンズで行われた第二回「全世代に感情力を育む会」での、東京大学大学院教育学研究科教授の遠藤利彦先生の講演内容をお届けするシリーズのラストです!

前回の記事では、遠藤先生から幼少期の「ぶつかり合い」の喪失と現代の若者へ与える影響として感情の調節能力を学ぶ機会がないという課題についてお話しいただきました。

本記事のテーマは、
「感情」と「怒り」の必要性。
話は人類の生存戦略から始まり、古代ギリシャの哲学、そして現代の民主主義の課題へとつながっていきます…。
生存戦略としての「社会性と感情」
まず前提として、発達心理学や感情心理学の視点からは、IQでは測れない「非認知能力(社会情緒的能力)」の重要性が世界的に注目されています。
人間の最大の強みは「1+1」をそれ以上の力に変える集団の結束…つまり「社会性」にあります。
人間は進化のプロセスにおいて、あえて自らの攻撃性を弱め、互いに親しみ合う性質を高める「自己家畜化(ネオテニー)」という道を選んできました。
もともと身体的な強さを持たない人間は、個体としては脆弱です。
それが、さらに自己家畜化し、攻撃性を弱めることで、さらに弱くなっていきます。
しかし、その「弱さ」こそ、私たちが群れを作り、互いに協力し合うための接着剤…つまり「社会性」を育みました。
そして実は、人間の「感情」には、その「社会性」を支える機能があるということが分かってきたのです。
古代ギリシャから続く「感情」の議論
遠藤教授この「感情の扱い方」については、実は古代ギリシャの哲学者たちも議論してきました。
かつてソクラテスやプラトンといった哲学者たちは、
感情は、理性が制御すべき
「暴れ馬(厄介者)」
と見なしてきました。
また、キリスト教的思想の中でも、感情の抑制こそが美徳とされてきた歴史があります。
感情観の転換:暴れ馬から「生存の知恵」へ
しかし、1980年代以降、心理学の世界ではこの見方が大きく転換しました。
なぜ役に立たない感情が、これほど多様に人間に備わっているのか?
一見非合理に見える感情の中に、実は生物としての生存や繁殖に適応するための合理的な機能…
すなわち「情の理(ことわり)」が潜んでいることが明らかになってきたのです。
現代では、人を単なる「経済人(ホモ・エコノミクス)」ではなく、感情豊かな「感情人(ホモ・エモティカス)」として捉えることが重要視されています。
感情に潜む合理性:罪悪感・感謝・公平性



感情は、短期的な利益よりも長期的な関係性を優先させる高度な調整機能を持っています。
例えば「罪悪感」や「感謝」は、目先の利益を捨ててでも長期的な協力関係を築くための高度な調整機能です。
空腹時に友人がお弁当を分けてくれる場面を想像してください。
経済的視点でいえば、もらえるだけもらうのが得。お返しをするのは損…のはずです。
でも、相手の弁当が減っていくのを見ると、私たちは自分がまだ満腹でなくても「申し訳ない(罪悪感)」と感じて遠慮し、「もう十分だよ、ありがとう(感謝)」と言うとおもうのです。
さらに、申し訳なさから「今度お返しをするよ」と申し出るかもしれませんね。(笑)
これは目先の利益を自ら制限してでも、相手とのバランスを調整する社会的機能といわれています。
また、人は不公平な扱いに対して「怒り」を感じます。
これは社会的な公正さやルールを守らせる働きをします。
100ドルを2人で分ける行動経済学の実験があります。
提案者と回答者という2人のプレイヤーがいて、提案者側が配分案(例:Aさんが80ドル、Bさんが20ドル)を提示します。
そして、回答者が提案者の配分案に受諾すれば、2人とも提案通りに配分されます(例なら:Aさんが80ドル、Bさんが20ドルもらえる)。
逆に、回答者が提案者の配分案を拒否した場合、2人ともゼロ。
つまり1ドルももらえません。
興味深いのが、提案者が「自分99ドル、あなた1ドル」と提案した場合です。
回答者は1ドルを確実にもらえる利益を捨ててでも「No(拒否)」を選び、両者ゼロになる道を選ぶ傾向があります。
本来、経済合理性だけで考えれば「1ドルでももらえるなら得」なはずですよね。
が、人は不公平な提案を拒絶し、1ドルもらえる権利を放棄して(要は損をして)でも「不公平な状況」を作った提案者側を罰しようとします。
そこには相手が不当に得をして、自分は不公平に扱われている!という「怒り」の感情があります。
この場合の「怒り」の感情も、決して我々にとって無駄というわけではなくて、人間の集団内で公平性をなるべく維持しようとする意味があると言われています。
アリストテレスと「正当な怒り」



さきほど、感情を「暴れ馬(厄介者)」と見なしてきたソクラテスやプラトンの話をしました。
しかし、古代の西洋哲学者の中にも「暴れ馬である感情にも意味がある」と唱えた人がいます。
それがアリストテレスです。
アリストテレスは、間違えていない怒りは絶対的に必要であって、それによって人間関係は成り立っているという立場でした。
彼は、人間が感情が昂ること…つまり怒ることのは当たり前だとしたのです。
一方で、
「人はタイミング、相手、方法を間違えて怒ることがある」
とも語りました。
そして、タイミング、対象、方法を間違えた怒りは害をもたらすと説きました。
“間違えた怒り”とは、例えば…
・怒るべき人に怒らない
・怒るべきタイミングで怒らず、全然違うところで八つ当たりする。
・本来は言葉で抗議すれば分かってもらえるのに直接暴力を振るってしまう
…などなどです。
繰り返しですが、アリストテレスは「間違えていない怒りは絶対的に必要である」という立場です。
ところが現代社会全体では、この「怒ること」自体が推奨されていません。
そのため「正当に怒る」ためのトレーニングの機会が、子どもにも大人にもなくなってきています。
大学のゼミで「熟議」ができない
この遠藤先生のお話を受け、学習支援塾ビーンズ代表の塚﨑から、この課題が教育や社会全体に与える影響について発言がありました。



遠藤先生のお話は、「全世代に感情力を育む会」全体で議論している、この社会における「熟議の欠如」という深刻な問題に直結しています。
「正当な怒り」の訓練をされていない。
だから、正当な怒りかた感情の表出・コミュニケーションができない
…この点は、「全世代に感情力を育む会」でも取り上げていく熟議の話につながると思いました。
ここでいう熟議とは、ある論点について、自分の意見と違う意見を持っている人に、ある種の熱意をもって自分の意見を伝えるという行為とします。
もちろん社会の中に熟議の場面はたくさんありますが、今話題にしたいのは大学のゼミ。
大学のゼミ生同士での議論が成り立たないという話です。



学生同士の喧々諤々の議論は、多くの大学から絶滅しつつあります。
ある論点に対して賛成・反対がある議論が成り立たない.……。
どころか「ゼミ合宿の行き先を決める」話し合いすら成り立たない。
誰かが一方的に話していて、他の人が誰もしゃべれない……とかではなく誰も自分の意見を言わないというのです。
自分の意見を言えない理由
なぜ、誰も自分の意見を言わないのか。
それは、大学生たちが「自分の意見は皆と違うかもしれない」ということを非常に恐れているからです。
当たり前ですが、一旦、自分の意見を表明すると(何かしらポジションをとってしまうと)そこから他人との意見との差異が明らかになってしまう。
だから、そもそも自分の意見を言わないことで(ポジションをとらないことで)他人との意見の差異が明らかにならないようにする。
「自分の意見を表明しちゃうと、他人の意見との差異が明らかになる。だから意見を言ってはダメ」と沈黙を選んでしまうと当然、今まで大学のゼミの中であったはずの熟議の時間は成り立たない。
熟議が成り立たないということは、自分の意見を主張し、他者の異なる意見と真正面からぶつかり合う力を育てる場がなくなるということも意味します。
そして、そういう状況が若者世代に広がっているとするなら、今後、大学のゼミ以外の社会の様々な場所に影響してくるのではと考えています。
熟議と民主主義の関係



熟議が成り立たないということは、民主主義を成り立たせる必須要素が欠けていくということにつながるのではないかと危惧しています。
この課題について、教育が果たすべき役割は何でしょうか。
民主的な社会を支える土台としての「熟議」、そしてその熟議を支えるインフラとして子どもたちの「ホンネでぶつかり合う経験」そしてホンネでぶつかり合って、失敗しても決定的には自分が傷つかない/相手を傷つけすぎない…そんな仕掛けのある空間/時間を担保することではないかと思います。
具体的には仲間と企画運営や、仲間と一緒に進路決め・一緒に受験対策をするという「熱い青春」経験を、「いざ」というときに介入できる大人の目の届く空間でおこなうこと。
その濃密な関係・濃密な時間の中で、他者との違いを(過度に)恐れず、自分の意見を主張し、自分とは違う他人の意見を聞き、さらに自分の意見を展開し、その過程で自分の感情を調整する経験を積むこと。
このトレーニングの場を提供し続けることが、教育の現場で求められているのだと考えています。
まとめ
遠藤先生は、
個人の感情の健全な発達が、個人の人生、人間関係、
そして、より良い社会関係を築く上で重要であること
をお話しされました。
私たちビーンズは、子どもたちの心理的安全性が確保された場を提供することを使命としています。
子どもたちは時にグダグダしながら、非効率に見える時間も経験します。
そして時に他人とぶつかりながら、友人との間で意見の相違や摩擦を経験し、それを乗り越えるための試行錯誤を繰り返します。
これらの経験を通して、他者との適切な距離感を、五感を通して感じ取り、身につけていきます。
私たちは、このような一連の経験を「青春経験」と呼んでいます。
これは、単なる知識の詰め込みではなく、感情を揺さぶられ、葛藤し、そして成長していくプロセスそのものを指します。
私たちビーンズが大切にする「熱い青春経験」での他人(仲間)とホンネでぶつかり合う経験が、子どもたちの感情力――感情の調節の仕方――を育み、成長のみならず、実は民主的な社会を支える土台を作るトレーニングの場になっている可能性があると考えています。
この課題に対し、尾身先生の意見を交えながら「全世代に感情力を育む会」の意義について議論を深めていきます。



















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